でも現在に同じ作品がつくられ、発表されたとしたら違った印象を受けると思う。
10年前につくられたっていうのが効いている。その斬新さ。
高校の頃、所沢の駅でチマチョゴリっぽい制服の女子を見かけたのを思い出す。
友達が「あれ、朝鮮の学校の人だよ」って小声で教えてくれた。
僕は当時、まったくもって無知(今以上に)だったので、友達の言ったこと、半信半疑で。
そんな学校が存在しているのかと。
飛躍して、芸術、文化は国家、民族の軋轢を解いてくれる、のだと思います。
忘れないナショナリズムと忘れていくナショナリズム。
上記の文章とは関係ないですが、
被爆者の主観性、存在し苦しまなければならない理由は、世界平和と核兵器の拒絶の実現で(されたとして)本当に晴れるのだろうか。『広島 記憶のポリティクス』この文章に出会った時は衝撃を受けました。モヤモヤをはっきり言葉にしてくれたと。
時折、思い出したりしています。
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